青春シンコペーション
第8章 先生、それは誤解です!(1)
その日、昼間は特に変わったことは何も起きなかった。午前中にやって来たフリードリッヒは相変わらずハンスを口説いたり、井倉に消化し切れないほどの課題を出したりしていた。それから、昼食を一緒に食べ、午後は新しい仕事の打ち合わせがあるからと言って帰って行った。美樹は午前中から出掛け、黒木も3時過ぎには約束のレストランへと向かった。
「それじゃあ、井倉君、あとはよろしく」
続いて、ハンスも正装すると彩香を伴って出掛けて行った。
「ついに僕達だけになっちゃったね」
じゃれ合っている猫達を見て、井倉がため息をつく。
「この家、独りでいるには広過ぎる……」
雨は上がっていたが、空はまだどんよりと曇っていた。
「それに、独りじゃ、ピアノの数も多過ぎる」
それでも彼は気を取り直すとピアノの前に座った。
「ワルツか……」
黒光りする蓋の裏側に、ドレス姿の彩香の姿が見えたような気がした。
――騎士は勇敢に戦って、姫を守るのです
「そして、お城では華やかな舞踏会が催されていました」
彼はすっと鍵盤に手を置くと、曲を弾き始めた。ブラームスの円舞曲。優美なその曲に合わせ、彩香が踊っているのだと想像した。そして、その相手は自分なのだと……。
――騎士は姫を助けて、共にお城へ……
しかし、気が付けば、そこにいるのはハンスだった。
ふと凍り付いたように指が止まる。
「そうだ。あれは僕じゃない。彼女が選んだのはハンス先生の方なんだ」
少し風が強くなって来た。木の葉が揺れて、ザザッと波のような音を立てている。
「彩香さん、今頃は先生と二人で……」
彼は頭を振った。そして、膨らんだ妄想を何とか打ち消そうとした。
(どんな話をしてるんだろう? 二人で……。楽しそうに笑って……。いったいどんな話題を……)
家の中はしんとしていた。昨日までの喧騒が嘘のように、今日は電話一本掛かって来ない。
「こうしていてもしょうがないや。ちょっと体を動かそう」
彼は脚立を引っ張りだすと、普段はやらないエアコンや照明器具などの掃除を始めた。
一方、ハンス達はレストランで食事を済ませるとダンスホールで音楽に身を委ねていた。
「思った通り。ハンス先生はダンスがとてもお上手なんですね」
「そうでもありませんよ。ルドルフの方がずっと上手です」
「お兄様も素敵だけれど、ハンス先生の方がお優しそうで魅力的ですわよ」
「それはどうも……」
彼女がターンする度にふわりと波打つスカートが美しい曲線を描き、虹色の光が散った。それはまるで気高い蝶の女神と森を支配する妖精王のカップルのように、気品に満ち満ちていた。
「見て? あの二人。何て美しいのでしょう?」
踊り手も楽隊の者達も、彼らの存在を意識しない訳には行かなかった。
「きっとお育ちがよろしいのね」
休憩を取った時、淡いピンクのカクテルを持って彼女が言った。
「いいえ、普通ですよ。ドイツではごく当たり前の家族でした」
「そうかしら? 小さい頃から身に付いた立ち居振る舞いは隠せませんわ」
優雅な仕草でハンカチを翳して微笑する。
「そうですか?」
彼も静かに微笑んだ。
「どうしてあんな庶民の生活に甘んじていらっしゃるの?」
「好きだから……」
ボーイが運んで来た紫のカクテルを取って、彼は言った。
「美樹さんのこと?」
彼が頷く。
「彼女といると仕事のことも他のどんなことも忘れていられる……」
ハンスは手の中でグラスを弄びながら目を細めた。
「好きなんです。そんな何気ない生活が……。できることならいつまでも、そんな幸福な時間を噛み締めていたい……」
グラスに入った液体の向こうで揺れる悲しみ……。
「もう二度と、僕の手からその幸福が逃げて行ってしまわないように……」
ハンスはそっと光の下に手を翳す。
「リボンでしっかりと結んでおきたいと願ってる。どうか笑わないでくださいね。僕って本当は臆病なんです」
そう言うとハンスは一気にカクテルを飲み干した。
「幸せな方ね、彼女って……」
持ち上げたグラスに反射する光の中で、誰かが寂しそうな顔をして自分を見つめている。そんな気がして、彩香はそっと手を止めた。
「貴女は幸せになれますよ」
彼は彩香を振り返って言った。
「僕は彼女を幸せにしてやれないかもしれない……。でも、井倉君ならきっと貴女を幸せにしてくれる」
それまで静かだった曲想が終わり、楽隊は情熱的な曲を奏で始めた。
「もう一曲踊りませんこと?」
彼女が誘った。
「喜んで」
彼は頷き、再び彩香の手を取ると場の中央へ出て行った。
夜になると、すっかりやることもなくなってしまった井倉は、猫達にフードをやり、自分はピアノの練習を始めた。汗をかいた分、気分も良くなり、弾くほどに調子も出て来た。そして、いつの間にか美樹が帰って来たことさえ気がつかずにいた。彼女は黙ってそこに立って、曲を聴いていた。
「あ、美樹さん、お帰りなさい。すみません。僕すっかり夢中になっていて気が付きませんでした」
「いいのよ。今の曲、すごくよかったわよ。井倉君はブラームスが好きなの?」
「はい。特に、この子守唄とかワルツとかはすごく好きです。実は幼稚園でよく流れていたんです」
――彩香はね、この曲が大好き! 早くピアノで弾けるようになりたいの
大輪の花が咲いたような笑顔で彼女が言っていたのを思い出す。
「そう。わたしも好きよ」
美樹が微笑む。
――わたしはワルツだってもう踊れるの。優介は踊れる?
(せっかく彩香ちゃんが誘ってくれたのに、あの時は砂場で転んじゃって恥をかいた。もしかしたら、彩香ちゃんはあの時のことを根にもって……)
――駄目よ! この人、ろくにダンスだって踊れないんだもの
その通りだった。それは今も変わらない。大人になっても井倉は踊れないままだった。
「今頃、ハンス先生達はダンスを楽しんでいるんでしょうね」
何気なく彼が言った。
「そうかもしれないわね」
「……僕にもダンスが踊れたらなあ」
井倉がぼそりと呟いた。
「諦めるのは早いんじゃない? ちょっと練習すればすぐに踊れるようになるわよ」
「そうですかね。僕って不器用だから……」
井倉が謙遜する。
「ふふ。ほんとに不器用ならピアノなんか弾けないでしょ?」
「そうかもしれないけど、ピアノとダンスじゃぜんぜん違いますよ。ダンスは二人で踊るものだし、男がリードしなくちゃいけないでしょ? それが難しそうで……」
「じゃあ、やってみない?」
彼女が言った。
「え? でも……」
尻込みするように口の中で言い訳を始める井倉に、美樹は明るく言った。
「どうせハンス達は遅くなるだろうし……。わたし、ダンス入門のDVD持ってるの。小説の資料だったんだけど、よかったらどう?」
「それは……」
井倉は一瞬だけ躊躇ったが、いつか彩香と一緒に踊りたいという気持ちが勝った。
「いいですね。やりましょう」
そこで早速二人はそのDVDを参考にしながら練習を始めた。
「えっと基本ポジションはこれでいいんですよね?」
「そう。まずは最初のステップ……」
初めは恥ずかしさもあり、動きもぎくしゃくとしていたが、何度か繰り返しているうちにだんだん形になって来た。
「うん。なかなかいいんじゃない? それじゃ、今度は曲に合わせてみましょ?」
「へえ。何だか楽しいですね。このまま練習を続ければ、何とかなるかな?」
「ええ。きっと大丈夫よ。彩香さんを驚かせてやりましょ?」
井倉も笑う。久々に充実した楽しい時間だった。
そのあとも、二人は何度も繰り返しおさらいした。おかげでほとんどミスもなくなった。そうして何度目かに曲が途切れた時、時計が小さくカチリと鳴った。
「いけない。もうこんな時間になっていたのね。ごめんなさい。何か飲む?」
彼女が訊いた。
「そうですね。さすがに喉が渇いたかも……」
時計の針はもう10時40分を過ぎている。
「わたし、冷蔵庫から何か持って来るわ」
「あ、いいですよ。僕が取って来ます」
二人が同時に動いたため、美樹が彼の足に躓いた。
「危ない!」
よろけた彼女を庇ってバランスを崩す。
「す、すみません。大丈夫ですか?」
倒れた彼女の上になってしまった井倉が驚いて半身を起した。
「うーん、ごめん。やっぱり少し疲れてたのね。足が縺れて……井倉君の方こそ大丈夫?」
「はい。僕は……」
その時。フロアの方から足音が聞こえた。ハンス達が帰って来たのだ。
「先生……」
リビングに入り掛けたハンスの視線が固まった。そして、井倉も……。
「君は……」
砂時計の砂がゆっくりと落ちて行く。数秒の沈黙の後、ハンスが口を開いた。
「……君達は、ここで何をしてたですか!」
その表情が険しい。
「何をって僕達はただ……」
が、目に涙を貯めて足早に近づいたハンスが井倉の襟首を掴んで怒鳴った。
「身損なったですよ! この獣め! 今すぐ彼女から離れろ!」
「せ、先生……! 違うんです。僕は……」
「離れろって言ってるのがわからないのか!」
師の剣幕の凄まじさに、動けずにいる彼を引きずり下ろしてハンスが凄む。
「殺す!」
怒りでハンスの肩が震えている。美樹が慌ててその腕を掴んだ。が、それを振り解いて、ハンスは井倉を殴りつけた。反動でピアノにぶつかった井倉は呆然としてこちらを見ていた。
「ハンス! 酷いわ! いきなり何をするの?」
美樹が彼の前に立ちはだかった。
「何をだって? おまえ達の方こそ何をしていたんだ! 僕がいない間に……!」
「ダンスの練習よ! わたし達はただダンスの練習をしていただけなの。それを勝手に勘違いして、何も悪くない井倉君を殴るなんて……!」
「美樹ちゃん……」
ハンスは呆然とした顔で自分の手と彼女を見つめた。
「君は、僕よりも井倉の方を庇うのか?」
「そんなこと言ってないでしょ?」
「だって、君は僕がいない留守に井倉と……」
「違う」
美樹は真剣に訴えた。が、ハンスの怒りは収まらない。
「何が違うって言うんだ? こんな……!」
彼はまだ、拳を握ったまま震えている。その爪の先端に微かな光が煌めいて、瞳にも反射していた。
「やめてください!」
井倉が叫んだ。
「彼女は悪くないんです。美樹さんは何も……」
井倉は懇願するように言った。遠雷が鳴っていた。白い猫のピッツァがハンスの足に擦りつけて鳴いた。
「信じてたのに……」
フラッシュのような稲光に照らされて、ハンスの瞳に涙が滲む。
「先生……」
握ったままの拳に浮き上がる十字を覆うように右手で掴むとハンスは言った。
「出て行け! おまえの顔なんかもう二度と見たくない!」
「ハンス先生……」
「出てけ!」
井倉はくっと唇を噛んで飛び出して行った。
「井倉君! 待って!」
慌てて追いかけようとする美樹の腕を掴んでハンスが言った。
「放っとけよ」
「馬鹿!」
美樹が彼の顔を叩いた。
「ハンスの馬鹿! どうしてわかってくれないの?」
「だって、僕は……僕……美樹ちゃんが……」
そこへ彩香が入って来て言った。
「何があったんですか? 今、井倉がすごい勢いで飛び出して行きましたけど……」
「それが……わたし達がダンスの練習していたら、ハンスが勘違いして……」
「勘違いじゃないよ! だって君達は……」
「違うでしょ? わたし、井倉君を迎えに行って来るから……」
そう言って出て行こうとする美樹を捕まえてハンスが言った。
「いやだ! 行かせない!」
強引に抱き締めてハンスは言った。
「何するの? 放して!」
「駄目だ! 行かせない! 君は誰にも渡さない!他の誰にだって……」
抱きついたまま泣き出した彼を見て、美樹は少し哀れに思った。
「ハンス……」
「いやだ! 絶対に! 君は僕と来るんだ」
そう言うと彼は美樹を抱えて階段を上った。
「ちょっと! やめて! ハンス! 下ろしてってば……!」
しかし、彼は寝室に入るとバタンとドアを締めた。
一人取り残された彩香の足元に猫達が絡んで来た。そして、彼女を見上げて交互に鳴いた。
「わたしにどうしろって言うのよ」
不穏な風が木々を揺らし、鋭い稲妻が斜めに走った。カーペットの上には楽譜が散乱している。彩香はそっと手に取って見た。
「ブラームスの子守唄……」
昔、好きだった曲……。
こんな夜に黒木はいない。
――彼女といると忘れられるんです。仕事のことも、他のどんなことも……
(先生がどれほど彼女のことを大切にしているか知ってるくせに……)
「井倉の馬鹿……」
瞬間、凍った空の一部を突き崩すような音が防音ガラスを越えて響いた。
「あの二人、大丈夫かしら?」
彼女はふと不安になって、固定電話のアドレス欄から電話を掛けた。
稲妻が絶え間なく閃いていた。時間の問題で雨が降って来るかもしれない。しかし、井倉は行く宛てもなく、そこに佇んでいた。
「ハンス先生……」
電信柱の影から家を見上げる。家の電気は点いたままだった。
――そこで何をやっているんだ!
雷鳴に混じってハンスの声が聞こえた。
――殺すぞ!
鋭い稲妻の光がすぐそこに閃く。
(僕達、何もしていないのに……)
――ハンス! いきなり何をするの? 井倉君は…
――君は井倉を庇うのか!
(大丈夫だろうか? もしも先生がすごく怒って、彼女に何かしたら……」
戻ろうかと思った。が、結局ドアノブに手を掛けたまま何もできずに街灯を見上げる。
(ううん。やっぱり行かない方がいい。僕が行けばまた、ややこしくなる……。二人は愛し合ってるんだもの。先生が彼女に酷いことをするなんて考えられない……)
――信じていたのに……!
(それでも、僕は先生を信じます。だから、僕のことも、もっと信じて欲しかった……!)
井倉は玄関から離れると、道路を歩き始めた。
(何処へ行こう? 行く宛てもないのに……)
その時、車のヘッドライトが辺りを照らした。井倉は咄嗟に電柱の陰に隠れた。
車は雪野家の手前で止まった。そして、助手席のドアが開いて子どもが一人先に降りた。
黄色い地にサッカーボールのTシャツを着たその子どもには見覚えがあった。
「遅くなっちゃってごめんね、YUMIちゃん。でも、降られないでよかったわ」
車の中から雪野が言った。
「桜お姉ちゃん、ありがとう」
「おやすみ、YUMIちゃん。また明日ね」
桜がそっと子どもの額にキスする。
「おやすみなさい」
そう言うとYUMIは素早くその家に入って行った。
「YUMIちゃん……?」
その子がドアを閉めるのを確かめると、車は桜の家の駐車場に滑り込んで行った。そして、運転席から彼女が降りる。ぽつぽつと雨が降り出して来た。桜は急いで家の中へ入った。
――家、すぐそこだから……
確かにYUMIはそう言った。そして、ハンスも……。井倉は急いでその子どもが入った家の表札を確かめた。間違いない。そこには日比野と書かれている。
(それじゃあ、あれはしおりちゃん? いいや、違う。でも、あとは弟の歩君しか……)
その時また稲妻と雷鳴が重なって、ついに雨が降り出した。井倉は取り合えず、日比野家の玄関の大きな庇の下に逃げ込み、そこで雨宿りすることにした。
その頃、歩は寝ているしおりを起こさないようにと、そっと二階へ上がって行った。
が、彼女はまだ起きていた。
「歩、こんな時間まで何やってたの? お父さん達、とっくに寝ちゃったわよ」
「しおりこそ何やってんだよ? いい子はもう寝てる時間だろ?」
「生意気言ってんじゃないわよ。こっちは大事なお仕事してたんだからね」
「そんならおれだって……」
歩の言葉を遮るように彼女は言った。
「あんたの仕事なんてどうせ大したことないんでしょ? そんなことよりこれ見て!」
しおりはプリントの束をちらつかせた。
「何だよ? それ」
「姫乃お兄ちゃんの嘆願書。すっごい数でしょ? 明日の朝、お兄ちゃんの学校に届けてやるんだもんね」
「なーんだ」
「なーんだってことないでしょ? わたしとお兄ちゃんにとっては、人生の一大事なんですからね」
「一大事ねえ」
歩が呆れる。
「あ、そういえばさ、今、姫乃んちの前をうろついてた怪しい人影を見たよ」
「何ですって? ストーカーじゃない? 人相は? 年齢はどれくらい?」
「暗かったからよくわかんないよ。若い男だったと思うよ。背は中肉中背ってとこかな? おれ達の車が来たら、慌てて電柱の陰に隠れたんだ」
「それって思いっきり怪しいじゃん! お兄ちゃんのファンかしら? そいでもってそいつ、お兄ちゃんに恋して、襲うチャンスを狙ってるのかも……。どうしよ、歩!」
「そんなバカな……。姫乃だって男だろ?」
「バカね、あんた。姫乃お兄ちゃんが書いてるのはBLなのよ! それを読んでいけない気持ちになっちゃったのかもしれないじゃない。いやよ! そんなの! わたし、絶対に許せない! 捕まえてぶっ飛ばしてやるわ!」
「でも、雨降って来たよ。明日にすれば?」
「今、見たんでしょ? きっと犯人は今夜襲うつもりなのよ。行くわ!」
しおりは我慢できずに立ち上がると階段を下りて行った。
「お父さん起こした方がいいんじゃないの?」
「だめよ! 大人なんか頼りになんないもん。行くわよ! いざ出陣!」
そして、しおりが勢いよくばんっと玄関のドアを開いた。
「痛ゥッ……!」
そのドアにぶつかって、井倉は顔を抑えた。
「あれ? 井倉の兄ちゃん、どうしたの?」
歩が叫ぶ。
「ごめん。ちょっとここで雨宿りさせてもらってて……」
痛みを堪えて井倉が言う。
「何よ、妖しいストーカーのレイプ男て井倉お兄ちゃんのこと?」
しおりが言った。
「レイプって……」
井倉がぶつけた鼻を抑えながら言った。
「だーってさ。けどおれ、レイプ男だなんて言ってないからな。しおりが勝手に勘違いして言ったんだから……」
「勘違い……」
(そうだ。先生は勘違いしてる。僕と美樹さんとの間には何もないのに……)
井倉は急に悲しくなった。
「お兄ちゃん、大丈夫? 血が出てるじゃない。それに涙が……。ごめんね。そんなに痛かったの?」
しおりがおろおろと言った。
「へんっだ。しおりがバカ力だからいけないんだろ?」
歩が言う。
「ねえ、中へ入って。手当しなきゃ……」
しおりが彼の腕を引っ張った。
「平気だよ。これくらい大したことじゃない」
井倉はハンカチで抑えると子ども達に言った。
「だめよ! このまま返すなんてできないわ。さあ、早く入って」
「帰る? 僕にはもう帰るところなんかないんだ……」
その瞳に涙が溢れた。
「どうしたの? お兄ちゃん。わたしでよかったら相談に乗るから……。とにかく中へ入ろう? ね?」
しおりに諭され、井倉は彼らの家に入った。そして、家の者達を起こさないようにそっと階段を上って子ども部屋へ通された。
「ちょっと待ってて。今、消毒薬取って来るから……」
しおりが下へ行くと、一人残った歩に井倉が訊いた。黄色い地にサッカーボールのTシャツ。間違いなかった。
「君が……YUMIちゃんだったんだ……」
「なーんだ。知ってたんじゃなかったの? ハンスにはすぐばれちゃったから、井倉の兄ちゃんも知ってるんだとばっかし思ってたよ」
歩が言った。
「僕は知らなかったよ。だから、すごく驚いた……」
(ハンス先生は知ってたのか。それも僕には内緒にしてたんだ。仕事のこともみんな僕には内緒にして……そんなに信じられないのですか? 僕が信じられなくて……)
――信じていたのに……!
「わからない……。もう、何が何だか……。僕にはさっぱりわからない……」
井倉は激しく首を振った。その時、ザッと音を立て、激しく雨が降り出した。
|